深き淵より我叫びぬ

 

 深夜。皆日々の疲れを癒すため、布団の中から夢の国へ旅立った頃。
 綱吉は修行でくたくたになった神経と肉体に鞭打って、自室から離れた廊下を歩いていた。暗闇に目を凝らし、息を殺して壁伝いに忍び足で歩く様子は、どう見ても不審そのものだ。そもそも暗いところが苦手なはずの綱吉が、わざわざ暗闇を歩くことからしておかしい。
 暗闇は、向こう側に何かがいるような錯覚を引き起こす。背後から何者かがついてきていそうな、曲がり角にいないはずの誰かが立っていそうな、あるいは突然、目の前に何かが現れそうな。冷たい物が胸郭の底からじわじわとせり上がってきて、綱吉のショックに弱い心臓を、既に半分ほど飲み込んでいた。
 こんな時に一人で肝試しをするような発想も神経も、綱吉にはない。それが証拠に、綱吉の足取りは恐怖に震えながらも確かで、明確な目的がある事を物語っていた。
 綱吉の指が、壁が途切れた事を伝えてきた。綱吉は素早く室内に入り、明かりもつけずに室内を横切った。この部屋は何で、どこに何があるか大体把握している動きだ。
 普段はジャンニーニとフゥ太が詰めている、通信・索敵・監視など、アジトの中枢と言える部屋だった。
 綱吉は手探りで端末を探り当てた。操作は頼み込んで、こっそりフゥ太に教わっている。待機状態の端末を起こし、ディスプレイのバックライトを頼りにヘッドホンを探しだし、装着する。綱吉は不慣れな手つきで、可能な限り急いで1つのファイルを呼び出した。再生されるまでに、ボリュームを限界まで下げた。

『う゛ぉお゛お゛おい!!!』

 ドスの利いた大音声に、綱吉は条件反射的に肩を竦めた。だが、視線は画面から外れることなく、ディスプレイを貫きそうなほどひたむきに真剣に、現れた人物を見詰めている。
 映っているのは、豪奢なソファに行儀悪く横座りした、シャープな美貌の青年だ。体はフレームからはみ出ているが、それでも彼が恵まれた長身の持ち主だと分かる。間接照明と黒一色の服装のため、長い銀髪がより印象深く、見る者に刻まれる。
 綱吉の頭に、何度も聞いた言葉は入ってこない。脳内だけではなく、網膜にまで焼き付けたいのか、同じ言葉を繰り返す青年を一心に見詰めている。学校でもこれだけ集中できれば良かったのにと、映像を巻き戻しながら補習の常連だった綱吉は、内心悔やんだ。
 無くしてから気づくなんて、どこかの歌の文句のような事を言うつもりはない。ただ、実感しただけだ。
 再び始まるビデオ。綱吉は改めて画面に見入った。いや、見入ろうとした。
 視界が突然、黒い何かに覆われた。それがレザーのグローブであると気づいたのは、その手が口元を覆った時だった。
 ヘッドホンが奪い取られ、床に投げ捨てられる。かしゃっと言う小さな音が、ひどく響いたように感じられて、綱吉は緊張に体を硬くした。

「何してんだぁ。こんな夜中に」

 尋ねられても、口を塞がれていては答えられない。たとえ塞がれていなくても、緊張で頭が真っ白になっている今の状態では、まともな返答はできないだろう。耳許で感じる呼吸音と吐息がくすぐったいと思うのだが、振り払う事もできなかった。ゆとりを無くした背中を、過剰すぎるほど意識してしまう。
 倍に増えた視線の先では、フレームに乱入者が現れ、喧嘩が始まったところだった。
 はあ……。
 溜息が耳殻を嬲る。綱吉は肌を粟立たせ、びくっと体を震わせた。腋の下や掌に、じっとりと冷たい汗が滲み、緊張のしすぎか口元を塞がれた事による酸欠か、はたまたその両方か、視界が白っぽく見えてきた。

「まだ消してなかったのかぁ、お前…。この後、ボスに殴られた上に、片づけまで押しつけられてなぁ…散々だったぜぇ」

 電気信号から再構成された音声ではない、生の声。耳許で静かに流される声に、綱吉の心臓は裂けるのではないかと思うほど激しく、早鐘を打つ。わざとやっているんじゃないか、この人は。
 ビデオは終わり、画面がブラックアウトした。間髪入れず腕が伸び、綱吉よりも慣れた手つきで操作し始めた。ディスプレイに表示されたメッセージに、綱吉は初めて大きく動いた。手を伸ばして、実行を止めようとする。
 しかし、緊張でガチガチに硬くなっていた頭と体は思うように動いてくれず、中途半端な空間に手を浮かせただけだった。
 再生されていたファイルが削除された。続いて、端末の電源も落とされる。
 綱吉は呆然と、目の前で命綱を断ち切られたような瞳で一連の動作を見守った。

「復元しようったって無駄だからなぁ。ほら、もう寝ろ」

 スクアーロは聞き分けのない子供に言い聞かせるように言った。
 綱吉は暫く、真っ暗に戻った部屋で石化したように動かなかった。やがてギシギシと音がしそうな動きで腕を上げ、口元を覆う大きな手に、そろりと傷の増えた手をかけた。感じる温かさは、自分の体温が移ったものか、それともスクアーロのものだろうか。
 彼は自分に触れる時、必ず血の通ったこの手で触れるのだった。
 口を塞ぐ手は、ほとんど力を込めずに外れた。綱吉は二、三度深呼吸し、全身に酸素を行き渡らせた。

「………何で」

 久しぶりに出した声は掠れ、動かした舌は重かった。疑問詞だけの問いかけに、スクアーロは軽く眉を寄せた。

「…お前が一人で、電気もつけずに歩いてんのを見かけてなぁ。尾けたんだぁ。ったく、目が悪くなっても知らねぇぞぉ」

 耳許で囁かれる声はビデオとは正反対で、優しい。凪いだように静かな声は、綱吉に安堵より違和感の方を強く感じさせた。
 綱吉は小さく、だがはっきりと首を横に振った。唾を飲み込むと、喉にひりつく痛みがあった。

「何で消したのさ………」
「は?」
「また、眠れなくなる……」

 活動している間は良い。だが、1日のプログラムが全て終わって休む時、活動する事で意識せずに済んだ暗愁が滲み出てきてしまう。心身共に疲れ果てているはずなのに、頭が異常に冴えている事もある。睡眠時間はギリギリまで修行に割かれ、疲れ果てた肉体と精神にとっては値千金だ。綱吉はそんな時、無理矢理目を瞑っていた。
 気絶するように眠りについて、眠りの底から叩き出された事も、一度や二度ではない。水面に浮かんでいるような眠りであった時もある。たとえ充分な睡眠時間であったとしても、不安や恐怖、プレッシャーを抱えたままの睡眠では、肉体と精神は癒されない。誰もが現状を打破しようと頑張っている時に、自分ひとり弱音を吐けるはずもない。誰にも見えないところで、綱吉の神経は追い詰められていた。
 ビデオレターが届いた日の夜、綱吉はいつもとは違う胸のざわめきに眠れなかった。瞼を閉じても開いても、一度見たきりの映像が残像として現れた。俺ってこんなに記憶力良かったっけと思いながらも、どうしても気になって、翌日、フゥ太に端末の操作方法を教わって、再生した。
 この時代で出会った皆と同じだけの時間を経た姿。でも内面は変わっていなくて、乱暴で過激で騒がしくて、元気そうで、思わず笑ってしまうほどほっとした。彼らにどのような処分が下されたのか、知る由もなかったのだから。
 そうして、綱吉は久しぶりに穏やかな気持ちで眠る事ができたのだ。
 以来、綱吉は寝る前には、このビデオを気が落ち着くまで見るようになった。
 スクアーロの生存は、ディーノに教えられていた。ただ、重傷である事と、処分については未定とも聞かされ、手放しでは喜べなかった。
 思いがけずこの時代のスクアーロに、たとえ映像でも会う事が出来て、やっと1つ、綱吉の心配がはっきりと消えた。綱吉が立ち向かうべき問題に比べれば実に些細な、指に刺さった見えない位に小さな棘程度の心配だったが、それでも確かに綱吉は楽になった。未来に来てから初めて感じた安堵だった。
 今、綱吉の背後にはスクアーロ本人が、実体を伴って立っている。

「もう、必要ねぇだろぉ。第一……」

 ディスプレイのバックライトが消え、部屋は完全な暗闇に戻った。
 スクアーロは綱吉に握られたままの右手を外転させ、綱吉の手を握り込んだ。痛くないよう、力加減に注意して。労るように。

「生で俺がいるだろぉ?」

 どっく。
 綱吉の心臓がスキップを始めた。頬が熱くなり、見られる心配もないのに、顔を伏せた。
 スクアーロは手を放し、頬に手を当てて、無理矢理自分の方を向かせようとした。当然、綱吉は抵抗する。スクアーロは思いもよらない反応に舌打ちし、力ずくで己の方を向かせた。勢い余ってぐるりと椅子が回る。
 山本の修行のためとはいえ、遠路遙々日本に来て、やっと会えた綱吉。なのに綱吉は自分も修行があると言ってほとんど別室に閉じ篭もりきりだった。顔を合わせる事の出来る数少ない機会である食事の時間でさえ、目が合うどころか気にする素振りすら、全く見せなかった。自分一人浮かれて、ジタバタしているようで、スクアーロは甚だ面白くなかった。腹立ち紛れに巡回していると、自室に繋がる廊下とは違う道を、一人で歩く綱吉を見つけたのだ。
 今のところミルフィオーレに動きがないとはいえ、メローネ基地で何かされていないとも限らない。スクアーロは危機管理一分、二人きりになりたい下心九割九分で綱吉を尾行した。
 見慣れた姿とは違う幼い容貌は懐かしかった。また、自分の不器用な告白に、笑ってずっと好きだったと言ってくれた彼の不在を改めて見せつけられたようで苦しかった。それでも彼がいるという事実は、あの凶報以来ずっと持て余していた空虚さを、少なからず埋めてくれた。そしてもう一度出会って思い知ったのだ。
 スクアーロは油断すると大きくなりそうな声を、必死で抑えた。そのため声は低音の、腹に響くような物になった。

「てめぇ……やっと会えたってのに、俺の顔なんざ見たくねぇってかぁ!? そんなに映像の方が好きかぁ!?」
「だ、だって……!」
「あ゛ぁ?」

 暗闇で感覚が研ぎ澄まされている。綱吉はスクアーロのあおがね色の視線に堪えられず、空いた両手で顔を覆った。女の子みたいだと、やけに冷静にそう思った。
 落ちた沈黙が痛い。きっと怒ってる。顔が赤くなっているのは絶対にばれている。この上、心臓の音まで聞かれたらどうしよう。
 綱吉は蚊の鳴くような声で、白状した。
 聞き取ってスクアーロがまず抱いた感想は、電気がついていなくて良かったという事だった。今自分は、自分でも見たくないほど間抜けな顔をしているに違いないから。

 恥ずかしくて。

 夜目の利くスクアーロでも、常夜灯も窓もない無明の闇の中では、指呼の間にいる相手の顔さえ見えない。
 ただ、触覚によってのみ知る事が出来る。腕を回した薄い背中、細い肩、柔らかな頬。
 その中で激しく動く心臓も。
 スクアーロは左腕をそっと伸ばし、綱吉との距離をゆっくり詰めた。二人の体温で温められた空気が、部屋の空気をかき混ぜながら散っていく。スクアーロは抱擁したものの輪郭を確かめるように、真綿の優しさで綱吉に触れる。
 初めて経験するスクアーロとの近さに、綱吉の頭はオーバーヒートを起こした。目が回り、緊張し通しだった体から、へなへなと力が抜けていく。綱吉は座っているのに倒れそうになったが、スクアーロの腕の中には逃げ場はない。力の抜けた体を、彼に預けるより他なかった。
 閉じ込める腕には拘束しようとする力はなく、抵抗して暴れれば脱出できるだろう。もちろん黙って許してくれるかは別の話だが、それ以前にショートしないのが不思議な状態にある綱吉の頭は、逃げようなど考えつきもしない。暗闇の中で感じるスクアーロの体温が、鼓動が、触れてくる手が心地良くて、綱吉は油断すると寝入ってしまいそうだった。
 スクアーロは、子犬や子猫を撫でるように触れる。自分の輪郭を辿る動きに、綱吉はふいに理解した。填り込むような感覚だった。
 綱吉はおずおずと、スクアーロと同じように手を回した。するとはっきり感じる、しっかりした体幹、滑らかでひんやりした白銀の髪、呼吸に合わせて上下する背。彼の存在を、抱き締められた時よりもっと近く感じる。
 抱き締め合うって、こんなに素敵な事なんだ。綱吉は感動と寂しさに、そっと目を閉じた。

 ------あなたはこの時代までの俺を知ってるんだよね。
 ------お前はこの時代までの俺を知らねぇんだよなぁ。

 本当に神様がいるのなら。
 俺たちを憐れんでくれるのなら。
 信じれば救われるというのなら、これからいくらでも信じるから。

 少しだけでいい、時間を止めて------。

 

 

スクアーロさん来日決定に萌えた結果です(はあはあ)。
来週に間に合って良かった…!