「カッコの前にhimがあるから」
「んー」
「人に関わる関係代名詞は?」
「あー」
「主格だったらwho、目的格ならwhomで」
「うー」
「この場合は目的格だから」
「はー」
「whom……ってう゛ぉい、何で俺が解いてんだぁあ!!」
自らの手で綱吉のプリントに答えを書き込んでから、スクアーロは叫んだ。決して忍耐強くない彼が今まで怒らなかったのは、相手が綱吉だからである。勿論そんな事、決して表に出しはしないが。
それでも割とバレバレなのは、彼だけしか理解していない。
スクアーロは、プリントをぼんやりと眺めながら生返事を繰り返していた綱吉の頭を、教科書の角で小突いてやった。
「あいたっ」
「そんだけボリュームがあるなら痛くねぇだろぉ」
「っひどいっ、人が気にしてる事を!」
綱吉は顔を手で覆って、わっと泣く真似をした。いつもの事だと、スクアーロはフォローもしない。スクアーロが綱吉の派手な逆毛をからかうのは、毎日の事だった。
「スクはいいよね……髪もストレートだし、頭も良いし……」
「頭の良し悪しと髪質に因果関係なんざねぇぞぉ」
んな事より。スクアーロは溜息混じりに続けた。
「何で一年の俺が、三年のお前の勉強見てんだぁ?」
「何でスクアーロは、高校三年の内容が分かるのさ……」
綱吉はコタツ布団を抱き込むように丸まりながら反論した。お前はダンゴ虫かと思いながらも、スクアーロは口にしなかった。傷つけるのを恐れたのではなく、言うだけの気力がなかったのだ。
コタツには英語の辞書や参考書が出ているが、カーペットを敷いた床には、数学や古典の教科書が散らばっている。どれも高校三年生用の教科書で、つまり綱吉の物だ。
スクアーロはその内の一冊を取り上げ、ぱらぱらとめくった。
「全部教科書に書いてあるじゃねーかぁ」
「確かにそうだけどさ、何でスクアーロは理解出来るの?」
「日本語で書いてあるからなぁ」
「そうじゃなくって! ………あー、もういいよ」
相応しい表現が思いつかなかった綱吉は、これ以上続けても無駄、と議論を打ち切った。日本語なら自分も読める。問題はどうしてその意味を理解出来るのか…と言いたかったのだが、考えても悲しくなるばかりだ。
「昔は、俺が勉強教えてやってたのに……」
「ああ、覚えてるぜぇ」
綱吉は寝転がったまま、スクアーロは頬杖をついて同じ光景を思い出した。
昔から、よく二人で勉強した。最初は平仮名の書き方、次に簡単な計算や漢字、かけ算九九と言った具合に。一人っ子の綱吉はここぞとばかりにお兄ちゃんぶって、張り切って今日学校で習った事をスクアーロに教えたものだった。終わったら、奈々の手作りおやつを喧嘩しながら食べた。
「間違いだらけの九九とか、下手くそな平仮名とかなぁ」
スクアーロのトドメに、綱吉はぐうの音も出ない。綱吉がお兄ちゃんぶる事が出来たのは九九を習うまでの事で、分数の計算が出てきてからは完全に立場は逆転し、現在に至る。
「いいから、続きすんぞぉ」
幼馴染みで年下の家庭教師は、年上の生徒を起こそうと、肩を掴んで揺すった。ただ腕を伸ばしただけでは届かないので、やむなくコタツから出、右手をコタツの天板につき、体ごと伸ばした。綱吉は拗ねて、体を捻って抵抗した。
「おわっ!」
「へっ!?」
想像以上の力に、スクアーロは重心を崩してしまった。コタツの天板についていた右手が滑り、綱吉の傍らに落ちた。残りの体はそのまま倒れたが、スクアーロは咄嗟に左手をつき、綱吉を押し潰す事は免れた。コタツがスクアーロの体重を受け、横に滑った。
つまり。
今スクアーロは、綱吉の背中にのしかかるような形になっていた。
(な゛っ……! な゛、#●%¥@$?*!)
不慮の事故とはいえ、思いも寄らない事態にスクアーロはパニックだった。コタツにあばらをぶつけた痛みも吹き飛ぶ程に混乱していた。
とても間近に、綱吉の顔がある。常々色白だと思っていたが、それだけではなく、きめ細やかだ。ほんの少し引っ掻いたら、呆気なく破れそうな気がする。鼻は小作りに出来ていて、その下で半開きになった唇と一緒に、このまま噛みつきたい衝動に背筋が震えた。
一種、動物的な衝動は本能に根ざしたものだ。それだけに堪えるのは、若いスクアーロには至難の業だ。体のどこと言わず、全身が熱い。彼の匂いが鼻腔を擽り、肺に、彼の吐息が高濃度で流れ込む。耳を圧する心音と呼吸音は、果たして誰のものなのか。激しい渇きに唾を飲み下すと、喉が痛んだ。
もぞ…と、狭苦しい空間で綱吉が身じろいだ。重いのだろう、眉がぐっと寄せられている。小さな肩越しの苦しげな表情は、今のスクアーロには凶悪に効く。キャラメル色の瞳が自分に向けられ、淡い色の唇がぴくりと動いた。
「スクアーロ、大丈夫?」
いつもの声、いつもの調子。自分を心配する「兄」の顔だった。
体の芯が急速に冷えていくのが、よく分かった。スクアーロは、関節を軋ませながら体を起こし、綱吉の上から退いた。
「何ともねぇ。お前みたいにヤワじゃねぇんだぁ」
「何だよー、もう、心配してやってるのに……」
ぷっとふくれながら、綱吉も起き上がった。スクアーロは黙ってコタツに入り直した。
「にしても、スクアーロのドジも珍しいよね」
「日頃ドジばっかの奴に言われたらお仕舞いだなぁ」
「またそんな事言って! 全く! 昔はもっと可愛かったのに」
「う゛ぉおい誰がだぁ! 気色悪りぃ!」
スクアーロは恥ずかしさと照れ隠しに、綱吉の頭をぐしゃぐしゃと掻き回した。綱吉はその手を振り払うが、スクアーロは懲りずに手を伸ばす。綱吉も負けじと応戦して、二人はまるで、仔猫の兄弟が猫パンチをくり出し合うように戦った。
ほのぼのとした喧嘩は、奈々の帰宅によって止められた。
「ただいまー」
「あ、帰ってきた! おやつおやつ!」
綱吉はパッとスクアーロから離れると、コタツから出た。
「スクアーロも食べるでしょ?」
「………お゛お」
スクアーロもやや乱れた髪を直しながら、のろのろとコタツから出た。綱吉が先頭に立って、連れ立って一階へ下りる。子供の時から変わらない並びだ。だが、スクアーロは階段の上の段に立たなくても、綱吉を見下ろすようになっている。
眼下に自分が乱した髪がある。スクアーロはすうっと手を伸ばして、梳いてやった。伸ばした手が小さく震えている事に、スクアーロは気づいていない。
綱吉が振り返り、ありがとう、と自分を見上げて笑った。
その笑顔が眩しくて、スクアーロはふいっと顔を背けた。階段の隅に、埃が僅かに溜まっていた。
こんな卑しくて浅ましい自分、知りたくなかった。
こんな汚い気持ちなど気づきたくなかった。
もう少しだけ、……いつか大人になるのは分かっているから、せめてそれまでは。
この、曖昧で居心地の良い関係のままでいたい。
いつの間にか小さくなった背中を見ながら、スクアーロは自分に蓋をした。
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