沢田家の朝はいつも騒がしい。その中心はもっぱら、この家の一人息子の部屋だ。
まず大音量の目覚まし時計が鳴り響く。しかし低血圧なのか怠惰なだけか、彼がこの音だけで布団から出てくる事はまずない。気を揉んだ母親の奈々が、階下から何度も呼ぶのだが答えは必ず
「あと5分……」
である。
「もう、幾つになっても遅いんだから……」
彼女も朝は忙しい。大学生の息子に朝食と弁当をこしらえてやる為だ。朝食はともかく、弁当は再三息子から「やめてくれ!」と言われているのだが、料理好きで食費を抑えたい奈々は聞き入れない。
呆れがちに頬を膨らませたところで、インターホンが鳴った。応えを待たず、玄関のドアが開く。
誰が来たのか分かっている奈々は、にっこりと無礼な客を迎え入れた。
「おはよう、スクアーロ君」
「おはよう」
スクアーロはぶっきらぼうに挨拶すると、靴を脱いで上がり込んだ。
スクアーロは沢田家の三軒隣に住んでいる高校生だ。昔から、二つ年上の一人息子とよく遊んでいるし、彼女自身も家を空けがちな彼の両親に代わって、何かと面倒を見ている。今では、ほとんど家族同然だ。この家の朝が騒がしい、最大の原因でもある。
「綱吉は…」
「ごめんね。やっぱり今朝もお願い」
奈々は困ったように笑いながら、顔の前で手を合わせた。大学生の息子がいるとは思えない容姿だから、そんな仕草も不思議と似合う。見上げるその顔に、そんな母親によく似た幼馴染みの顔を重ね合わせながら、スクアーロは溜息と共に頷いた。
朝に弱い幼馴染みを叩き起こす事が、ランドセルを背負っていた時からの、彼の日課だった。
「朝ご飯の準備しておくから、よろしくね」
「任せろぉ」
スクアーロは学生鞄片手に、階段を二段飛ばしで上がっていった。乱暴な足取りに階段は抗議の声を上げたが、スクアーロは歯牙にもかけない。
「う゛お゛おおい、起きろ綱吉ぃ!!」
何の遠慮もなく、スクアーロは力一杯ドアを開け、怒鳴りつけた。大音声にベッドの住人はもぞもぞと動いたが、起き出す気配は全くない。寧ろ奥へ潜り込もうとする。
スクアーロは鞄を放り出し、大股で見慣れた癖毛がはみ出している布団に近づいた。行かせまいと、その頭をこれまた遠慮なく鷲掴みにして引きずり出した。
「いででででででっ、やめろ馬鹿スク!」
「毎朝起こしに来てやってる奴に対していきなりそれかぁ!?」
「じゃもうちょっと優しく起こしてよ」
「それじゃいつまでも起きねぇだろぉがぁ!」
「大体、俺、今日は午後からだよ。こんな早起きしなくて良いんだって」
「遅刻すんのは目に見えてんなぁ。って、お前と掛け合い漫才やってる暇はねーんだぁ! 俺まで遅刻させる気かぁ!」
さっさと出て来い! とスクアーロは問答無用に布団を引き剥がした。
「ぎゃー! 何すんだこの変態!」
「誰がだぁぁぁぁああ゛!!」
毎朝恒例の漫才に、奈々はニコニコしながら卵を焼いていた。
スクアーロにとってはギリギリ、綱吉にとってはたっぷりと余裕のある電車に飛び込んだ時は、二人とも息を切らしていた。スクアーロは肩で息をし、綱吉はゴール後のマラソンランナーの体だった。スクアーロは閉まったばかりのドアに寄りかかり、綱吉はドアと座席が作る角に力なく凭れかかった。
「な……何でスクアーロは、けろっとしてんの……」
「鍛え方が違うからだぁ」
息はまだ整っていないが、喋る元気は戻ったらしい。綱吉は横目でスクアーロを睨んだ。
昔は、いつも自分が手を引いてあげたものだった。綱吉の方が年上だから、手を繋いで登下校していたのをよく覚えている。スクアーロが自分とは別の学校に入ると聞いた時は、弟が兄離れしたようで寂しいような、嬉しいような気持ちになったものだ。
気がつけばスクアーロの顔は自分より随分上にある。体格も、お互い細い方とは言え、時間が止まったような自分よりも立派だ。おまけに、綱吉の方が手を引かれて学校に行く始末だ。綱吉は妬みと一種の感慨を込めて、隣に立ったスクアーロを上から下まで眺めた。
いきなりじろじろと見られ、スクアーロは狭いスペースで居心地悪げに身じろいだ。
「う゛お゛おい、急にどうしたぁ?」
「いや、スクアーロの学ラン姿も、今年で見納めだなって思うと」
スクアーロはこの春から高校3年生だ。黒い詰め襟の学生服が新鮮で、興味本位で袖を通したら指先も出ない事に傷ついたのを思い出して、綱吉は遠い目で苦笑いした。その顔にスクアーロは疑問符を浮かべたが、それだけだった。
「そう言えばスクアーロさ、本当に進路変えないの?」
「あ゛あ」
「何でさ……お前、頭良いんだからさ、今からでも間に合うよ」
「中学に上がる時、お前の意見聞き入れてやったじゃねぇかぁ」
「そうだけど、もうちょっとよく考えた方が良いって」
スクアーロは卒業後警察学校に入るつもりだ。周囲は大学に入ってからにしたらどうだ、と何度も言うのだが、かつて周囲に流される形で今の中高一貫校に入ったスクアーロは、聞く耳を持たない。一度言う事を聞いてやったのだから、従う謂われはないと言うのだ。
一度決めたらテコでも動かない、幼馴染みの性格をよく知っている綱吉は、それ以上言わずにふっと息を漏らした。
「まあいいか。スクアーロの方が先に大人になるみたいで、悔しいけど」
そして、くすくす笑う。
その言葉と笑顔に、スクアーロは何も言えなくなった。言うべき言葉を探している間に、停車のアナウンスがタイムアップを告げた。二人はドアから離れ、スクアーロだけがドアに向き合った。
「じゃ、時間が合えば、また帰りね」
「おう」
よく目立つ、人より高い位置にある銀髪頭を、綱吉はお兄さんの顔で見送った。
スクアーロは一度だけ振り返ったが、綱吉は座席に座り込んでいて、後ろ姿しか見えなかった。背負った黒いデイバッグが、ランドセルにだぶって見える。
子供の時には見上げていた顔。それを見下ろすようになって、運動でも勉強でも、綱吉を追い越してなお、スクアーロにはその背中を見ている事しか許されない。
どんなに頑張っても、綱吉の方が先に行ってしまうのだ。学校に入るのも、卒業するのも、社会人になるのも。綱吉の方が先に生まれたのだから仕方ないが、スクアーロには歯痒かった。
早く大人になりたい。背中を追いかけるのではなくて、手を引いて歩くのだ。
掴んだその手を離す事のないように強くなって。
ずっと一緒に歩きたい。……のに。
「……気づきやがれぇ。あの鈍感」
スクアーロは切ったばかりの頭を掻き回した。それから気を取り直して、遅刻寸前の高校に向かって走り出した。
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