額縁
何の変わりもない夜だった。 季節外れの天候で異常気象と言われる事もなければ、何らかの事件や事故が起こった事もない。静かすぎると言えば、珍しいほど静かな夜だった。 常とは違うところは、自分がこんな時間に起きている事だろう。千種は腕時計にちらりと視線を遣って、そう思った。腕時計は、予定ではとうに就寝しているはずの時刻を示している。 部屋には彼と、もう一人の人物がいた。古い付き合いの相方でもなければ、唯一己の主人と接触できる女性でもない。この部屋に彼ら以外の誰かがいる事も、普段とは違う。 千種は、テーブルを挟んで来客の正面に座っていた。テーブルには来客が手土産に持ってきた上物のワインが、コップに注がれて並んでいる。酒を嗜まない部屋の主が、棚の奥に仕舞われたままのワイングラスを出すのを面倒がったからだ。それに来客は体を折り曲げて笑った。 『千種さんらしいですね』 自分の何を見てその感想を抱いたのかは分からなかったが、千種は黙ってコップを並べ、ボトルを開栓した。開栓に使ったワインオープナーは、最初からこの部屋に備え付けられていた。その内処分しようと思っていたのだが、使う日が来るとは夢にも思わなかった。 乾杯してからずっと、この部屋は塗り込められたように静かだった。 「……静か、だね」 沈黙に耐えかねたように、来客はおそるおそる口を開いた。ここで初めて視線が自分の顔を捉えた。顔が正対せず、上目遣いにこちらの反応を窺うものだった。 千種は答えない。頷く事さえしなかった。来客は折角上げた視線を膝まで下げた。 来客は元々話題豊富なタイプでも、社交的なタイプでもない。仲間意識を持つにはあまりにも浅い付き合いではあったが、千種もその位は知っていた。特に彼は、立っているだけで相手が勝手に話しかけてくる立場だから、交渉術は身につけても、社交術は身に付かなかっただろう。 来客はソファーの真ん中に座ったまま、微動だにしなかった。時間の経過につれて、回ったアルコールが緊張を解いたはずだろうが、用件を告げる事もない。借りてきた猫の方が、まだ落ち着きがないと思われる位に大人しかった。確かに彼は引っ込み思案で、騒ぎを起こすより、騒ぎに巻き込まれるタイプだが、どう考えても様子がおかしい。 彼が一人でここにいる事からして、既におかしい。彼は一人で自由に行動できる立場にはない。どこへ行くにも常に、二人以上の護衛がつくはずだ。その護衛は入室を許されず、部屋の外で待機している。問い質したいのだが、どうにも面倒だった。 何より千種は、今のこの沈黙が気に入っていた。来客にとっては怖ろしいプレッシャーであるようだが、この、世界の全てから隔絶されたような沈黙が好きだった。 来客は手入れの悪い自動人形のようにぎこちない動きで、コップを取った。くい、と呷る。意外な事に、彼はなかなかの酒豪だった。多少フランクになりはするが、乱れるような事はない。顔立ちは母親似だが、酒の強さは父親似だったらしい。 千種も来客を真似るようにコップを取り、内溶液に口を付けた。甘い白ワイン。すっかりぬるくなっており、甘さばかりが舌にまとわりついた。 千種の動きを見ていた来客が、ふと笑った。今年最初の花が開いたような微笑み。千種は寸の間、見蕩れた。 どこに出しても様になる人物、と言うのはいるのだ。贅の限りを尽くした王侯貴族の宮殿でも。機能性のみを追求した要塞でも。鄙びた山里でも。コンクリートジャングルの真ん中でも。必要最低限の家具しかないこの部屋でも。 それはただ単に見た目だけの問題ではない。ある人物にしか持ち得ない、特別な華というのがあるからだ。その華がどんなベクトルでもよい、美しく、煌びやかで薫り高ければ高いほど、周囲はその人物に傅き、跪き、額ずいてしまう。 彼自身は否定するが、明らかに彼には極上の華がある。凡ての物が彼を飾ろうと、切磋琢磨させる華だ。故に彼の周囲には最上のものだけが集まり、彼をより一層輝かせるのだ。超一流の画家が描いた絵には、超一流の額縁が相応しいように。 来客が何かを探すようにきょろきょろした。目当ての物が見当たらなかったのか、やがてポケットから携帯電話を取り出した。開かずに小さな機械の表面を眺めたあと、あっと声を上げた。時計を探していたらしい。 「ご、ごめん、長居して」 「……別に」 来客はコップの中身を空けると、いそいそとキッチンへ向かう。それを千種は見送った。千種は肩の力を抜き、猫背気味の背中をもっと丸くした。結局この来客は、一体何をしに来たのだろうか。 肩の力が抜けた理由は呆れたのではなく、この時間が終わってしまう事への落胆である。千種は気づかないふりをして、ワインをもう一舐めした。最初に注いでから、中身はほとんど減っていない。 飲み慣れない物に意識が朦朧としてきた頃、来客が戻ってきた。 「一応、洗って直したんで。場所、違ってたらごめん」 「構わない」 そのまま出て行くのかと思ったが、来客は髪をいじったり、袖のボタンをいじったりとそわそわして、動こうとしない。その顔はどことなく思い詰めたように見える。 何故そんな顔をするのか。千種にとってはそれもどうでも良い事のはずなのに、今に限って、指に刺さった小さな棘のように気に障った。理由を聞こうにも、尋ね方が思いつかなかった。今まで誰かに気を遣った事など、無かったから。 だから酒は嫌なのだ。頭の働きを鈍らせる。 「じゃ……、俺、もう帰るね。遅くにお邪魔しました」 千種が適した言葉を考えている間に、来客が口を開いた。ひょこりと頭を下げ、のろのろと歩き出す。千種は誰にも、自分でもほとんど分からない程度に眉を顰めて、見送ろうとソファーから立ち上がった。 ソファーから戸口までの距離は数メートルしかない。亀より遅く歩いても、かかる時間は高が知れている。飲酒のせいで速まった呼吸を十数回すれば、あとはノブを回して扉を開けるだけだ。 来客は殊更のろのろとノブに手を伸ばした。伸ばした手は、ノブに触れることなく来客とノブの間の空間を彷徨っている。突然距離感を失ったようだ。 それをあまりにも繰り返すので、千種は不審に思い始めた。来客がボトルの半分を空けたと言っても、潰れるような量ではない。二日酔いとは無縁の彼が、あの程度で酔うはずがなかった。 焦れた千種は、ドアを開けようと手を伸ばした。これ以上の夜更かしは、明日に障る。 が、伸ばした手はふらふら彷徨っていた、その手に取られた。 千種は来客に握られた手を、ぼんやりと見つめた。細い手。拳が武器とは思えないほど優しい手だ。そして、火傷しそうに熱い手だ。この世に二つと無い指輪が填められた指が、植物の蔓のように力一杯絡みついていた。 「………何」 「………あのっ、さ」 来客は振り向かない。やや俯き加減になって、振り絞るように話し出した。 「あの、もう、行くんだよね…………三人で。一応、俺の守護者の事だから、俺や皆も行かなきゃいけないと思うんだけど、でも、駄目だって。問題はそればっかりじゃないからって。だから……、だからさ、何も、できない、けどっ」 同い年とは思えないほど細い背中。肩が小さく震えていた。 顔が見たい。千種は手を握られたまま思った。指輪が手に食い込んで、少し痛かった。 「えっと、あの、もし、駄目でも……いや、上手くいくのが一番だけど、怪我してても、いや、できれば無事で、……………こんなこと言っちゃいけないって、分かってるけどっ」 来客は肩で大きく息をした。手を握る力が一際強くなった。 「最悪…………………………せめてあなただけでも生きて、帰ってきて下さい……!」 千種は握られた手を握り返した。何故知っているのかとも、誰から聞いたのかとも言わなかった。そして自由な左腕で、手に相応しく小さな優しい体を引き寄せた。今までした事がなかったから不器用に、ただ精一杯に大切に、この世に二つと無い彼を抱き締める。触れ合ったところからこの感情が伝わればいいと、狡い事を思いながら。 頬がいつの間にか濡れていた。 |
黒曜ツナでは一番好きな柿ツナです。
クロツナはほのぼのだったのにこっちは悲恋になってしまった……。